花舞う長安

−玄宗と楊貴妃−



次回は『玄宗と楊貴妃』ってことで、
久々に難しいお話なのかなぁとちょっと不安・・・
いや、難しいとか軽いとか以前の不安かも(ーーゞ
日本の歴史にさえ疎いのに、自国以外の歴史なんて
余計にさっぱり・・・ちんぷんかぷんでございます。
なので、今回もちょっとだけ背景を探してみましたので、
u-tsuのように歴史に弱いの・・・という方は一緒に
予習しましょう〜(^^;


予習・・・とはいうものの、そもそもの時代背景からして
さっぱり?な状態ですので、玄宗がどうとか楊貴妃がどうとか
よりも、まず、唐っていう国について知らないとねぇ(ーーゞ

で、古代からの中国王朝といえば、殷、からですかねぇ。
その前にも国はありましたが、教科書に出てくるのはこのあたり?
u-tsuなんて授業で習った記憶が全くないんですけど・・・
王朝名を暗記する替え歌だけは覚えてるんですよねぇ(苦笑)。
この替え歌は『もしもしカメよ』の曲に合わせるんですよ。
さぁ、そこのあなた!『もしもしカメよ』の節に合わせて
一緒に替え歌を歌ってみましょう〜。

いんしゅうしんかん三国さんごくしん
南北朝なんぼくちょうずいとう五代ごだい
そうげんみんしん中華民国ちゅうかみんこく
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく〜♪

ってな感じですが、どうでした?ピタっとはまりましたか(^^)?
習った事は忘れちゃうのに、こんな替え歌だけは覚えてるって一体・・・

で、唐、ですが、唐の歴史は618年〜907年の289年間。
626〜741年に渡っては内政でも外交でも国威を振るい繁栄したそうで、
農業生産が発展、税金の低下により産物など交流が盛んになり、
都 長安は人口数世界最大の都市にまでなりました。
中でも唐の第6代皇帝、玄宗(在位712〜752)の治世の前半(713〜741)
28年間は「開元の治」と呼ばれていて、最も繁栄した時代だそうです。
唐の黄金時代ってところでしょうか。
玄宗は国政改革を意欲的に行い、政局の混乱を収拾。
社会矛盾の緩和と秩序再建につとめた・・・とあります。
でも政治的に安定していたのは755年の安史の乱までで、
その頃には楊貴妃との恋や道教にふけって政治を疎かにしていたらしい。
才知ある男も、やっぱり美女には弱いってとこですか(^^)?

安史の乱とは、唐の武将・安禄山あんろくさんが755年に
皇帝の寵を受ける者の排除と称して兵を挙げたことによるものです。
この反乱の前から国政が傾き始めてはいましたが、安史の乱によって
更に唐は崩壊へ向っていったとされています。
大きな要因はやっぱり楊貴妃、なのでしょうねぇ。
楊貴妃の出現によって政治がおろそかになり、その為に側近や
政界には楊貴妃側の人間が多くなった・・・という事実が
安史の乱の伏線となっていると云われていますから。


さて、わたるくん演じる玄宗とは、どんな人なのでしょう?
玄宗は685年、睿宗えいそうの第三子として生まれました。
姓はいみな隆基りゅうき
(諱とは「忌み名」のこと。死後にいう生前の実名)
歴史にはつきものの地位争い。
もちろん玄宗も例外ではありません。
関係資料を読んでいると人物が結構入り乱れて何がなんだか(ーー;
ま、早い話が帝位を狙う悪者を退治して皇帝に収まったというところですよね。
え?解からない(・_・)?でも説明はとっても面倒だから省きます(苦笑)

玄宗は芸術に長けているというか、楽曲や書、道教を好んでいたと
云われています。よく歌舞伎や芸事に縁ある世界を『梨園』と云いますが、
この言葉は玄宗に因んでつけられたそうです。
芸事を好み自らも楽しんだ玄宗は、弟子に歌舞や楽曲を教えていて、
その場所に使っていた邸宅に梨畑があったことから由来しているとか。
どうして『梨園』というのか、ずーっと不思議だったのですが、
由来が判ってスッキリ(^^)。でも梨じゃなくてブドウとか他の
果物だったらどうなっていたんだろ・・・?

性格、容姿に優れ、武将・政治家としても敏腕な玄宗・・・
それなのに、楊貴妃という1人の女性の出現から国を崩壊へ導いてしまった。
全く、どうして一国の主たるものは美女に弱いのか(苦笑)。
しかも息子の嫁だろうに・・・節度っていうか、恥じ入るっていうか
そんなもんは持ち合わせていないのか?
そう、実際は息子の嫁だった楊貴妃を自分のものにするんだよね、玄宗。
舞台ではやっぱりそれに関しての演出は変わるんだよねぇ?
等身大になるか、もしくは40代くらいの設定が違和感ないかなぁ?
個人的にはちょっと凛々しくヒゲなんてついてると嬉しいかも(^^;

安史の乱が起こると、楊貴妃を連れて現在の四川あたりに逃れたそ
そうですが、『この内乱の原因は楊貴妃だ、処刑しろ』と家来たちに
迫られ、玄宗は苦悩の末に仕方なく側近の高力士こうりきし
楊貴妃の処刑を託しました。といっても楊貴妃処刑の事実は謎のまま・・・
毒薬を飲まされたとか、木の枝に帯を結び首をかけたとか・・・
そんな説はあるものの、楊貴妃墓に遺体はなかったという説や
日本漂着説まであり、死亡事実はどこまでホントで嘘なのか、
?ハテナマークいっぱいな状態のようです・・・(苦笑)。

それにしても、家来たちに詰寄られて苦悩の末とは云え、
寵愛した女性の処刑を許してしまうなんて・・・勝手なヤツだなっ。
舞台でもこういうヤワな男なんでしょうか、わたる玄宗?
こんなわたるくんも珍しい気がするけど、やっぱり楊貴妃を
毅然と守る玄宗が観たいなぁ〜。
どうなる、舞台版・玄宗っ?!(⌒―⌒;



玄宗といえば楊貴妃、ですよね。
セットだよね、この2人は(^^)
『世界3大美女』の1人が楊貴妃・・・

719〜756年、どのような人生を送っていたのか?
当時のしょく(現在の四川省しせんしょう)で戸籍係をしていた
楊 玄ようげんきょうに娘が生まれました。
玉環ぎょくかんと名づけられた女の子は
早くに父親を亡くし、叔父である楊玄えんに養育されました。
美しく成長した玉環は街でも噂されるほどの美女だったそうです。
養父玄えんは童女を引取り養って成長させては売り飛ばして
いたそうですが、玉環に関しては売り飛ばすのは勿体無いと考え、玉の輿を
狙っていたとか。高貴な身分へ嫁がせ、自分はその富みを得ようという
魂胆ってところでしょうか。その為わざわざ、玉環の美しい容姿の噂を
宮廷に届くよう広めたりしたんだとか。
その努力が実ってか、玄宗の側近であり後宮を取りしきる高力士の耳に
噂が入り、玉環を一目見ようと楊家を尋ねます。
高力士は玉環の美貌を目の当たりにして、
【玄宗が好みそうな美女だ】と考えましたが、
この時は玄宗の后が健在だったため、玉環は玄宗の息子である
寿王じゅおう李瑁りぼうの后として迎えられたそうです。
それは寿王14歳、玉環15歳の時でした・・・

もし、この時に玄宗が独り身だったら、玉環は直に玄宗の后になって
いたのでしょうかねぇ?かなりの美女ぶりってことで、一目でお気に入りに
なっていたのは間違いないって感じかなぁ。


ところが、李瑁に嫁いでしばらく後、玄宗の后、武恵妃ぶけいひ
40歳という若さで病死。彼女の死を嘆き悲しむ玄宗は武恵妃の面影を求めさまよいます。
そんな玄宗を見て高力士は玉環の存在を思い出しますが彼女は寿王の后・・・
すぐに玄宗のもとへ召し上げるというわけにはいかない、ということで、
玉環を一度道教の尼にし、楊太真たいしんという名で出家させました。
本能のままに息子の嫁を召し上げるってのは世間体も悪かろうしねぇ(苦笑)。
ま、それはあくまでも表向きってことで、実際は宮廷内にかくまっていたとか。

で、出家した楊太真は、驪山りざんにある華清宮かせいきゅう
玄宗と対面を果たします。この驪山というのは温泉地で、歴代の皇帝が
享楽に耽った場所なんだとか。玄宗も楊貴妃を伴い秋から春にかけて毎年、
この華清宮に訪れては温泉に入り、歌舞を楽しむという日々を過ごしました。

玉環は出家後、皇后に次ぐ貴妃の位を得ます・・・楊貴妃の誕生です。
このとき玄宗61歳、楊貴妃25歳(27歳とも)でした。
玄宗は楊貴妃の夢中になり政治をおろそかにする日々が続きました。
その為、宰相の李林甫りりんぽが中心となって
政治を取っていました。李林甫は楊貴妃の従兄である楊国忠ようこくちゅうを自分の
部下として抜擢。これを機に楊一族が宮廷内に進出し、王朝が傾き始めます。

なんか、玄宗ってものすごい女性にダラシナイっていう印象じゃないですか?
60過ぎのオジサン(オジイサン?)とはいえ、皇帝としての威厳もなにも
感じられないんですけど・・・もう、イイ歳して若い女性を召し上げる
なんて、ちょっとイヤだなぁ(苦笑)。でも権力者にとっては
ごく当り前の日常なんだよねぇ。こんなことまで、ある意味しきたりだもんね。
若かりし日々の英気は消え去り、ただただ寵愛する楊貴妃と共に
舞楽や楽曲を奏でる毎日・・・平和ボケとでもいいますか、
楊貴妃だけが玄宗にとって一番大切なものになってしまったのですねぇ。
後宮にいる他の女性には目もくれない。そんなに美しかったのか?と
とっても気になる楊貴妃の美貌・・・でもさ、昔の美人って現代の美人と
種類も造りも違いますよねぇ(苦笑)。クレオパトラだって容姿は
絶賛するほどじゃないって言われてますしね。でもクレオパトラは言葉を
何カ国語も操ることができ、そういう部分は美徳とされていたとか。
ちょっと脱線したので、本題に戻りましょ・・・

玄宗の治世前半は「開元の治」とよばれ唐の黄金時代だったのに、
晩年、特に楊貴妃を得てからは政治そっちのけの女狂い・・・
楊国忠の昇進から宮廷は楊一族に乗っ取られるカタチとなる。
そして安禄山の登場で内乱が起こり、玄宗は楊貴妃をはじめ、その姉妹や
宮女、側近らを伴ない四川へ逃亡・・・でも楊国忠が八つ裂きにされたのを
はじめ楊一族の人間は次々と処刑され、内乱の原因となった楊貴妃にも
処刑が迫りました。玄宗は反乱を起こした兵士らを止めることができず、
苦悩の末、とうとう楊貴妃の身柄を差出します。
楊貴妃は37年の生涯を終えました・・・

とはいうものの、楊貴妃の死に関しては色々説がありまして、
実際にどう人生を終えたのかは定かではないそうです。
前回にも書きましたが日本漂着説なんてのもあって、真相が
全く判りません(苦笑)。でも反乱兵に取り囲まれた状態で
逃げる事が可能かどうかは・・・微妙ですよね。
仮に逃亡できたとして、独りではムリかと。誰か手引きした
人間がいそうだと思いますが、手引きするほうも命懸けですよねぇ。
やっぱり助かる確率はほとんどないのじゃないかと思うんですけど?
よく判らないですよねぇ、実際に自分の目では確かめようがないし。
ま、舞台で観るならドラマティックというか夢のある結末になって
くれるでしょうから、現実の終焉は闇の中でもイイかもね(^^)。

因みに、「長恨歌ちょうごんか」という長編叙事詩では
ラストは以下のようになっているそうです。

楊貴妃の死を悲しみ、楊貴妃を思って夜も眠らない玄宗は道教士の導きで、
今は仙人の世界にいる楊貴妃と再会します。2人は仙人の世界と人間界に
割かれていても、愛が永遠に変わらないことを確かめ合います。

「七月七日長生殿 夜半無人私語時
『在天願作比翼鳥 在地願爲連理枝』」
天長地久有時盡 此恨綿綿無絶期

「7月7日 七夕の夜、誰もいない長生殿で 私たちは誓い合った。
『天にあっては比翼の鳥 地上にあっては連理の枝となり添い遂げよう』と」
天地は永久に思えてもいつかは尽きるときがくる。
でもこの思いは いつまでも尽きることはないでしょう。


「長恨歌」はあくまでも玄宗と楊貴妃のロマンス部分を中心に
創られた詩なので、ラストが綺麗にまとまっていますよね。
楊貴妃は亡くなってしまったけど、これも一応はハッピーエンドかな。
舞台も「長恨歌」を元にしたら、ラストはかなり宝塚っぽいものに
なるのではないかなぁと・・・あんまり、ワザと涙を誘うような
演出は好きじゃないんですけど、時代からいってお衣装も豪華だと
思うので、夢のあるラストにはなりそうかな?


「比翼の鳥」とは?
雄雌の鳥二羽が一翼で常に一体となって飛ぶと
いうもの、また翼を並べて飛ぶ鳥のこと(広辞苑)
男女(夫婦仲)の親密さを表現しているそうです。

「連理の枝」とは?
連理は1本の木の幹や枝が他の木の幹や枝と
連なって木理が通じていること(広辞苑)
男女(夫婦仲)の深く睦まじい親密さを表現しているそうです。

どんな親密さが観れるのやら〜(^^)?



玄宗と楊貴妃に次いで主要となるのは・・・安禄山かな?
楊国忠も主要だよねぇ。でも配役表は安禄山が先なんで、こちらを。

安禄山は705〜757年を生きた人物で、イラン系とトルコ系民族の
混血児・・・ハーフというよりは「胡人こじん」というらしいです。
唐の節度使であった禄山ですが、、後に叛臣となります。
一体なぜ、なのでしょうか・・・

突厥とっけつのソグド人武将の父親と、同じく突厥出身の
母親をもつ安録山は6種類もの言語を操ることができた為、
互市ごしとして働いていたところを幽州ゆうしゅうの節度使 張守珪ちょうしゅけい
認められ武将となりました。で、功績を得た禄山は、得意の言語術で
玄宗に取り入り寵愛を獲得に成功。
平慮へいろ范陽はんよう河東かとうの3節度使を兼任します。
742年〜751年の出来事です・・・

ちょっと、ここで解説(^^)

胡人とは?
中国で北方または西域の異民族のこと。
また、広くは外国人のことも指す。

突厥とは?
トルコ系の遊牧民、また彼らが支配した国のこと。

ソグドとは?
中央アジア、サマルカンドを中心とする
ザラフシャン川流域の古名。住民はイラン系。

互市とは?
外国と貿易をすること。
中国で、古くは北方民族との貿易をいった。

節度使とは?
唐・五代の軍職の一つ。8世紀初め、辺境の要地に
置かれた軍団の司令官。安史の乱の後は国内の要地にも置かれ
軍政のみでなく民政・財政権をも兼ねて強大な権限を有した。


6種類の言語に長け、人に取り入るのが得意な安禄山は李林甫と結託、
玄宗の寵を受けます。更には楊貴妃までも彼を気に入り、なんと楊貴妃の
養子にまでなった・・・とかいわれていますが。ビックリです(苦笑)
でも、楊貴妃の従兄であり、同じく寵を得ている楊国忠と対立。
752年に林甫が亡くなると国忠が政権を握り、益々反目が激しくなりました。
その2年ほど後には対立が悪化、禄山は兵を挙げ、まずは洛陽を攻めました。
楊国忠は執拗に禄山を排除しようと試みていたため、危険を感じた
禄山は以前から兵を集め備えていたらしい・・・
反乱の際の兵の数は15万、20万ともいわれていますが、そんなにどうやって
集められるのか?っていうと、やっぱり節度使の長官という身分柄、
兵士には困らないというトコロでしょうか。
なんてったって3節度使ですからねぇ・・・反乱を起こして自らが
皇帝と成ることも不可能ではない、とか考えたのでしょう。
でも名目上は「楊国忠の排除」らしいですけどね。
で、洛陽に攻込んだ翌年には都長安を落したと・・・
玄宗はじめ楊貴妃、貴族など宮廷の人間が都を追われる原因に。
長安を占領した禄山は自らを大燕だいえん皇帝と称し
即位しますが、そのしばらく後に失明・・・禄山はかなり太った人物
だったらしく、健康的な様子ではなかったようで失明以外にも
何か病気を患っていたらしい・・・
人は思いがけない事やどうにも成らない事に苛立ちを覚えるもので、
禄山も例に漏れず・・・病のせいで狂暴な振舞いをするようになり、
結果、息子に殺されてしまったんだそうな。

一体、何の為に反乱を起こし皇帝に即位したのか?
安禄山の行動は良かったのか悪かったのか・・・
無意味にも思えるし、それなりに充実していたようにも思えるし。
でも最期は思い通りにならず、挙句に息子に殺されたワケで、
そこだけ考えると気の毒のような自業自得のような・・・?

この反乱を「安史の乱」といいますが、「安」は安禄山の安。
で、「史」はというと史思明ししめいの史です。
お芝居には登場しないようですが、その史思明とは?というと、
禄山と同じくソグド出身で、若い頃から親しいといいますから、
戦友とか友人って感じですかね?反乱の中心人物の一人でもあります。
禄山が殺され、跡を継いだのは史思明です。この乱は9年も続いたとか。

あんな死に方で、結局、この人のやりたかったことっていうのは
何だったんだろう?って気がしないでもない(苦笑)。
野心家、ではあっただろうし出世欲も大きかったとも思いますが。
病気なんてしていなければ歴史も変わっていたのでしょうねぇ・・・

配役としては結構、オイシイ役じゃないかなぁと思うので、
できればね、わたるくんには安禄山や楊国忠を演じてほしいなぁと。
だって、ただの色好みな皇帝っていうのはちょっとイヤだし(ーーゞ
若い頃は英気溢れる青年でも、楊貴妃によって腑抜けになっていく・・・
芝居とはいえ、そんなわたるくんを今は観たいと思わないかも。
演出や設定によっては良い役になるだろうけど、観てて楽しいのは
多少やることが卑劣でも目的ある野心的な男だったりするので。
でも、一人の女性に心を奪われ最高位から落ちていくっていうのも、
考えようによっては悪くないかもねぇ・・・
どっちにしても脚本にかかってる、ってことかなぁ?


余談ですが、楊貴妃って体重が80kgあったとか・・・
ウソかホントかは不明ですが(苦笑)。
大昔のことなんで何ともいえませんが、80kgとはいかないまでも
それに近い体重はあったのかも。なんたって皇帝の寵愛を
得るには豊満な身体っていうのも条件だったそうなんで。
それを聞くと細身の身体っていうイメージはなくなりますし。
安禄山もかなりな巨漢というか、太り具合だったそうだしねぇ。
う〜ん、でも80kgの楊貴妃・・・ってのは
想像するの難しいですよねぇ(^^ゞ





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